■1947年11月1日佐賀県武雄市生まれ。高校1年のとき野球で甲子園に行く(残念ながらベンチをあたためただけだ)
1970年3月 日本大学芸術学部写真学科卒業。一ノ瀬の大学時代は、学園紛争があり、大学は約一年間閉鎖された。彼は、ボクシングにうちこみ4回戦ボーイまで経験する。卒業後UPI東京支社でアルバイト。
1972年1月 自費で、インドパキスタン戦争の取材にでかける。
1972年3月 カンボジアの戦場に立つ。
1972年6月 カンボジア強制退去
1972年〜1973年6月 ベトナム戦争取材。アサヒグラフ ワシントンポストなど内外のマスコミで活躍。
1973年6月 カンボジア入国。首都プノンペンに一ヵ月滞在。公安に監視され地方に行くことは許されなかった。出国の前日、練習に行ったプノンペンのナショナルボクシング協会から、コーチの紹介状を書いてもらう。
1973年8月 その紹介状をもとに、サイゴンのカンボジア大使館で、2週間という条件でビザを発行してもらう。再びサイゴンから、韓国の弾薬輸送船に乗り、プノンペンに向かう。3割しかプノンペンに着かない危険な賭けだ。
1973年11月8日 シアムリアップにて友人のカンボジア人教師、ロックルーの結婚式を撮影する。
1973年11月22日か、23日、アンコールワットに単独潜入して行方不明、26才になったばかりだった。


■一ノ瀬の両親は、行方不明後も息子の生存を信じ、カンボジア政府に幾度も捜索の嘆願書を送り続けた。そして一ノ瀬泰造を村人が見たとの情報を得て、1982年、TBSの取材に同行する。そしてアンコールワットの北東約10キロ、プラダックの荒涼とした草原の土に眠る息子の遺骨と再会することになる。取材によると、一ノ瀬泰造は1973年11月22日か23日、アンコールワット潜入後すぐにクメール・ルージュに捕まる。そしてプラダックに連行された。夜は足に鎖を繋がれたが、昼間は自由に村人の撮影をしたりしてたらしい。その後、命よりも大切なカメラを取り上げられ、反抗的な態度を咎められ、11月28日に処刑された。遺体の埋められた場所は、村人の多くが覚えていて、両親はそこを堀りかえし、遺骨を収集した。清二氏が、泥にまみれた遺骨を近くの川で洗い、荼毘に付した。遺骨の一部はアンコールワットを仰ぐ木の下に、残りはのちに日本に持ちかえられ、現在は故郷、佐賀県武雄に眠っている。