(略)


 1967年4月、僕は大学に入り写真を専攻した。
 入部したサークルの一つ先輩に、1947年、佐賀県武雄市生れの一ノ瀬泰造がいた。
 一ノ瀬は大学卒業後、UPI通信社東京支局でアルバイトをする。
 そして1972年1月に自費で印パ戦争の取材に旅立ち、三月にはカンボジアに入国。ストリンガーと呼ばれる一発屋、フリーの戦争カメラマンとしてのスタートだった。
 そこで一ノ瀬は幾度となく、カンボジアの遺跡アンコールワットに潜入撮影を試みる。政府軍に撮影フィルムを没収されたり、一度はクメール・ルージュ(カンボジア解放戦線)に捕まったが、無事解放される。その6月「政府軍にとって好ましからざるジャーナリスト」との理由でカンボジアを強制退去になる。

(中略)


 10・21の騒乱罪が適用された夜、鋼鉄のフェンスを破壊してデモ隊が流れ込んだ新宿駅構内を撮影中、新大久保と代々木方面から、ジュラルミンの盾を光らせる機動隊が、挟み討ちの作戦にでたときは緊張した。絶体絶命。捕まる。ふと見回すと新宿ステーションビルの線路側の1階に小さな明りが一つポツンと見えた。僕はホームを飛び降り、必死にその小さな窓に飛び込んだ。そこは公衆便所だった。便器を乗り越え、無事助かった数十名、皆息をはずませ蒼白だった。西口広場にでると装甲車が燃えていた。それを撮影する僕は、すっかり戦場を駆け回る報道写真家気取りだった。あとで知るのだが、やはり一ノ瀬も同じように新宿駅構内にいて撮影している。
 その数週間後の深夜、バリケード封鎖された学園を、関東軍と胸に記した右翼の集団が襲撃する。初め、数に勝る関東軍が優勢だったが、朝になると他の学部の全共闘が駆けつけ逆襲した。囚われた多くの右翼(多くは学園の体育会の学生。僕と同じクラスのSもいた)はリンチにあった。
 数日後、学園の街は、1000人の機動隊に包囲され催涙ガスが撒き散らされた。右翼の襲撃とその結果の集団リンチが強制捜査の名目だった。バリケードのなかの約60名は、多勢に無勢、抵抗しながらも全員逮捕された。
 僕は、右翼襲撃のニュースを聞いて、学園の街に友人と駆けつけた。機動隊が学園を蹂躙する様子を、催涙ガスに目を腫らしながら、遠巻きに眺めていた。そこでブラックのレンジファインダーカメラ、ニコンSPを手に持つ一ノ瀬泰造を見かけた。すでにサークルは解散したので、彼との関係はなくなっていた。僕たちは目をあわせるだけで、ことばを交すことはなかった。
 翌1969年2月、再度機動隊が学園を包囲した。そしてバリケードは粉砕され、封鎖は完全に解除された。
 その後表面上、学園の街に平和が戻り、街には新しい喫茶店や店がオープンしたりした。
 5月、例年より遅い入学式が行われた。
 そこで僕は、外からは気がつかなかったが、驚くべき変貌を学園が遂げていたことを知る。
 紛争中、全敷地の3分の1の旧校舎は、学生によって占拠されバリケードを巡らされた。しかし、もっと広大な3分の2の敷地には、建設会社による強固な鋼鉄のバリケード、フェンスがずっと以前からそびえていたのだ。そこでは学園紛争中も、右翼がバリケードを襲撃して機動隊が学園の街を催涙ガスで浸潤したときでさえ、ちゃくちゃくと工事を続行していた。
 そしてバリケード封鎖が解かれると、学園の敷地全体にぐるりと、より強固なフェンスが構築されたのだ。入学式はその檻のなか、フェンスの中で行われることになった。われわれのサークルは一度は解散したものの、上級生を除いてしぶとく存続していた。そのおかげで、新入生のオリエンテーションの後に、各サークルの勧誘を、閉鎖された檻のなかですることを許されていた。
 その日の朝、新入生勧誘のため、各サークルの部員全員が、新入生と共に、ガードマンが厳重にチェックする檻の中にぞろぞろと登校した。まだ大学側は過激派による妨害を恐れていたのだ。


(中略)


 僕が大学を卒業した9ヵ月後、ある著名な写真家のアシスタントになったちょうどその頃、風の便りに一ノ瀬泰造がヴェトナムに行ったと聞いた。
 意外な気がしたし、そうかなとも思えた。当時僕の理解では、反戦の気運が盛り上がったヴェトナムに行くことは、左翼的な行動に思えていた。一ノ瀬は体育会系の無口な青年で、どちらかといえば街頭宣伝する右翼団体のほうが似合っているように思えていたし、そういう言動もあった。
 しかしあの時代、戦争カメラマンにあこがれるのは、彼の様な肉体派の人間なのかなと納得もした。彼は陳腐なヒューマニズムでヴェトナムに行ったのではない。彼はありあまる自分のエネルギーを発散させるため、自分を賭けるために行ったのだ、と僕は考えていた。
 翌年、彼がカンボジアで行方不明になった時、その救援活動の話が、アシスタント中の僕にも聞こえてきた。修行中の僕は時間がまったくなかったこともあるが、その活動を、他人事のように、遠くから眺めていた。
 1978年僕が、フリーの写真家になった3年目、一ノ瀬泰造の書簡と日記をまとめた「地雷を踏んだらサヨウナラ」(講談社刊)が出版された。偶然テレビでそのドキュメンタリー番組を見ただけで、本を読むことはなかった。僕はそのテレビのなかの「泰造」と呼ぶ、彼の両親の一ノ瀬泰造と、僕の知る「一ノ瀬さん」が同一人物とは思えなかった。そこにはナイーブな、一人の大切な息子が存在していた。

(中略)


 一ノ瀬泰造は憧れのヴェトナムの戦場に立ったが、あまり商品価値のないポジションに呆然と立ちつくしたに違いない。一ノ瀬がカンボジアのアンコールワットにこだわったのは、この戦争の求心力、命を懸けてでも撮影すれば世界的スクープとなる、リアルに言えば、金と名誉の、唯一の被写体がアンコールワットだったからに違いない。きっと一ノ瀬にとってアンコールワットを目指すことは自然なことだったのだろう。
 隣国カンボジアは、1970年、親米右派のロン・ノル国防相の軍事クーデターによって、全土が戦争に引きずり込まれた。ヴェトナムと違い1953年フランスより完全独立したシアヌークの王政カンボジアは表面上平和な国だった。アンコールワットは世界的観光地として賑わっていた。しかしヴェトナムと接する山岳地帯は、解放軍の軍事補給路、いわゆるホーチミン・ルートになっていた。中立政策を取っていたシアヌークはそれを黙認した。アメリカは、泥沼化の元凶、ホーチミン・ルートを壊滅すべく、カンボジア領内を秘密裏に爆撃もしていた。しかし効果は現われずカンボジアに親米政権を樹立することによって、ヴェトナムを包囲しようとした。
 ところがアメリカの傀儡政権、ロン・ノル政権に対抗するべく、ヴェトナムと共闘するカンボジア解放戦線(クメール・ルージュ)は、農民から圧倒的な支持を受け、カンボジア東部諸州に続いて、アンコールワットも占拠して要塞化した。以来アンコールワットは解放軍のシンボルとなる。 

(中略)


 1973年8月17日、サイゴンから韓国の弾薬輸送船でプノンペンに向かった。3割しかプノンペンに着かないという危険きわまりないルートだ。プノンペン上陸後、周辺の戦闘やコンポンチャムの攻防戦を取材するが、頭のなかはアンコールワット潜入のことしかなかった。一ノ瀬は何度目かの負傷を負うが、ようやく11月5日、アンコールワットの門前町、シァムリアップに、前年知りあい、一緒に暮した友人の結婚式の写真を撮るために向かった。
 実は一ノ瀬は前年、アンコールワットの遺跡をその二つの目に焼きつけている。それは1972年3月24日。政府軍の編隊パトロールについてゆくチャンスがあり、アンコールワットまで1.5キロの地点にまで近づいている。そこから一ノ瀬は、森に囲まれた、車も人影もない真直ぐな道路が、遥か霞むアンコールワットの尖塔、中央塔と回廊翼塔まで続いている風景を見る。そこで一ノ瀬はカラー写真を一枚撮影する。そして感想を日記に記している。
・・・・・・けさ6時に来て見た。私のために、両サイドに数名の兵隊を先に配置しながら進んだ。アンコールワット入り口に、高性能スナイパーがすえつけられているという。望遠レンズで一枚だけシャッターを押す。広角レンズでなきゃーつまらない。シァムリアップに戻り、また旧高校方向に1.5 H進んで西のヤブの中に1 Hほど進んだ折である。ダ、ダンッと威嚇射撃を受けた。「地雷を踏んだらサヨウナラ」
 望遠レンズの世界は他人事だ。安全な場所から覗きみる世界だ。広角レンズはそばに寄らなければ撮れない。対象と対等に面と向かい合わなければならない。面と向かうことにより、自分が命を賭けたことが写っている力強い写真が一ノ瀬は撮りたいと思っていたに違いない。その勝算がどのぐらいあったのかは不明だ。クメール・ルージュは前年より強力になり、状況はよりいっそう悪くなっていた。
 カンボジアはヴェトナム以上に混沌とした戦場だった。すでに沢田教一ばかりか、ヴェトナムを生き抜いた多くのジャーナリストがここカンボジアで消えている。一ノ瀬のように、組織もバックもなく言葉にも不自由した若者が、単独でアンコールワットに潜入することじたい無謀だとも言えた。しかし一ノ瀬にとってそんなことは、わかり切ったことだった。常に死を意識していたとしても、また、生に執着したところで、人間どこに居ても死ぬときは死ぬ、と思っていたのだと思う。
 学園紛争が終り反戦運動も下火になった浮かれた時代、一ノ瀬は命を賭けて生きることを望んだ少数派だ。一ノ瀬は、世界を知るため、世界の惨状を世の中に知らせるためにカメラマンになったのではない。一ノ瀬はどの時代にでもいるある種の若者と同じように、自分を知るためにカメラマンになり、ヴェトナムやカンボジアに行った。
 あの時代若者は、日本の高度成長期とシンクロしていた。普通の家庭に育てば貧しさとは無縁だった。そして何も特別なことを望まなければ、平和な生活ができるように思えた。いわゆる大衆として、消費する側になることを肯定すれば、楽しく暮せるような気がしていた。しかし、自分の内なるエネルギー、野心を燃やし、何かを求めようとすると、平和な日本には何もなかった。いや、なにかあったのかもしれないが、自分のあり余るエネルギーを燃焼しつくしたいと思う若者の一人、一ノ瀬泰造にとっては、それが写真であり、肉体の底から同意できる、命を賭けた仕事、それが戦争写真だったのだ。
 一ノ瀬は自分のことを、戦場カメラマン、戦闘カメラマン、写真バカと呼んでいたという。だから一ノ瀬は、彼より年上の先輩カメラマンたちとは、どこか違っていたと思う。一ノ瀬はジャーナリストというより、人生を彷徨う旅人だったのかもしれない。
 1973年11月8日。シァムリアップで、親友のカンボジア人教師ロックルーの結婚式を撮影した。「アサヒグラフ」のため、戦争のさなかのひととき、平和なフォト・ストーリーを撮影した。
 その数日後。一ノ瀬は、「地雷を踏んだらサヨウナラ」と、友人に言葉を書き送り、11月22日か23日、アンコールワットへ単独潜行したまま消息をたつ。26歳になったばかりだった。
 一ノ瀬よりさらに遅れてきた、写真家A氏は、一ノ瀬の無念を、どこか自分に重ね合せていたのかもしれない。いつの時代でも、どのポジションから写真を撮るかということは、一番重要なことなのだ。それは、個人の努力ばかりでなく、時代のめぐりあわせだ。一ノ瀬は遅れて来たために、より危険な取材をすることになる。積極的に行動しなければ成果はない。その結果として一ノ瀬はアンコールワットに消えた。一ノ瀬の本と写真集を監修した写真家A氏は、それを形にすることで一ノ瀬を鎮魂したのだと思う。遅れてきたカメラマン同士通じあう何かがあったのかもしれない。

(後略)

終わり

全文は「サイゴンの昼下がり」を読んで下さい。


追記

一ノ瀬の両親は、行方不明後も息子の生存を信じ、カンボジア政府に幾度も捜索の嘆願書を送り続けた。そして一ノ瀬泰造を村人が見たとの情報を得て、1982年、TBSの取材に同行する。そしてアンコールワットの北東約10キロ、プラダックの荒涼とした草原の土に眠る息子の遺骨と再会することになる。取材によると、一ノ瀬泰造は1973年11月22日か23日、アンコールワット潜入後すぐにクメール・ルージュに捕まる。そしてプラダックに連行された。夜は足に鎖を繋がれたが、昼間は自由に村人の撮影をしたりしてたらしい。その後、命よりも大切なカメラを取り上げられ、反抗的な態度を咎められ、11月28日に処刑された。遺体の埋められた場所は、村人の多くが覚えていて、両親はそこを堀りかえし、遺骨を収集した。清二氏が、泥にまみれた遺骨を近くの川で洗い、荼毘に付した。遺骨の一部はアンコールワットを仰ぐ木の下に、残りはのちに日本に持ちかえられ、現在は故郷、佐賀県武雄に眠っている。