★2004年 「ロバート・キャパ最期の日」でこの解決編として上梓しました。

1999年1月に出版した「サイゴンの昼下がり」のなかで、ロバート・キャパの最期の土地を訪ねたことを書いた。彼が死ぬ間際に撮った写真に、彼の死んだ場所が絶対に写っていると、僕は考えたからだ。しかしさまざまな事情で確定するに至らなかった。ロバート・キャパの最期の写真に似た場所は発見したが、あくまで少ない資料からの推量だ。この件に関しては「サイゴンの昼下がり」新潮社の「一ノ瀬泰造とロバート・キャパ」の章でくわしく書いてある。
僕は再度準備をしてその土地を訪れようと思っている。それには、キャパのヴェトナムでの最期のコンタクトプリントを見れば、足取りがわかる。今はキャパの弟のコーネル・キャパかICPが管理しているらしい。
Capa没50周年には、本にしたいなと思っている。



僕の大学時代の友人のS氏、もとPPS通信社に勤めていて、1984年のロバート・キャパの展覧会に関わっていた。先日彼からもらった情報を引用します。




1984年6月銀座松屋での写真展「ロバート・キャパ展 戦争と平和」は、企画構成を その最初から手がけた、思い入れのある展覧会です。展示作品でも示しましたが、また 展覧会図録にも掲載していますが、それまで構成上決まっていた作品に加え、モノクロの 最後の作品(インドシナ 1954年)20点と最後となったカラー16点をそのとき初めて公開しました。モノクロのコンタクトプリントはそのものを見ていませんが、この20点が 最後の写真の直前を含めたほぼすべてと思われ、また、カラーの16点は最初の1枚だけは 日本で撮影されていますが、最後の写真を含めた直前の写真の全てです。 日本で世界に先駆け初公開したわけですが、厳密にはそれ以前では、そのうちの カラー1点のみが当時「CAMERA」誌に発表されたものでした。 カラーはコダクロームで1点以外はその当時現像したままの状態で紙のマウントに続き番号が 刻印されていました。制作に使用後、オリジナルは東京展終了後コーネルに返却しています。 展示した最後のカメラも。(後、そのカメラ=Nikonは富士美術館に寄託されています) 展示写真のキャプションはアナ・ワイナンドによるものだったと思います。

下の写真は「サイゴンの昼下がり」のなかの「戦争写真家ロバート・キャパと一ノ瀬泰造」の章でも詳しく書いたが、1954年日本帯在中のキャパがタイムライフの要請で訪れた、仏領インドシナ、ハノイ近郊、彼が地雷に倒れた土地、紅河デルタの街、ナムディンとタイビンを結ぶ一本道の風景だ。僕は残された資料からロバート・キャパの痕跡を探すため、この道を何度も往復した。

そうやってようやく見つけたのが、キャパが最期に撮ったモノクロ写真の場所にきわめて良く似た場所だ。あくまで僕の独断だけれど。この写真は土手の上から撮ったが、ロバート・キャパのアングルは、左の低地だ。
(1998年6月25日撮影)


capaの最後のモノクロ写真はhttp://digitaljournalist.org/issue9711/req3.htmサイトで見ることができます。参照してください。

『サイゴンの昼下がり』 戦争写真家ロバート・キャパと一ノ瀬泰造より、抜粋

(前略)


 彼が死の直前に撮った、最期の写真も残っている。正確にいえば、それはカラー写真だが、その数秒前に撮ったモノクロームの写真が有名な写真だ。
 そこには、戦車のあとを、等間隔にばらけて前進する、10名ほどの兵士の後ろ姿が写っている。目の前の兵士の銃は肩にかけられ、さほど緊迫した雰囲気ではない。足元は雑草が茂る河川敷のようなところで、右手には雑草や灌木の生い茂る背丈ほどの堤防が前方に続き、それは次第に左に蛇行している。その写真が死の直前の写真で、キャパはそのなだらかな土手を昇ろうとして、地雷に倒れてしまった。
 僕は、その写真を見るたびに、かねてからキャパの死んだその土地に行ってみたいと、その場所を特定して花を手向けたいと思っていた。
 僕は友人の通訳氏に、下調べをしてもらった。ところが、現在のヴェトナム人は誰もロバート・キャパについて知らなかった。写真家や新聞関係の人間ですら、誰一人として名前すら知らなかった。40年以上もまえの、まして彼等にとって、敵であるフランス軍と行動をともにしたキャパを、いくら世界的に有名であろうと、それは西欧社会のこと、彼等がまったく無知であることは当然といえば当然だった。
 それでも僕は、地名やキャパの最期の日の写真や、その時刻までもが克明に記録されていたので、行けばすぐにわかると楽観していた。だから僕は観光ビザで十分だと思っていた。写真を撮るだけだったらそれで構わないと、ヴェトナム大使館でも確認を取っていた。
 ところが地域の詳細な地図など売ってないヴェトナムで、場所の名前一つでさえ、付近の住民に聞かなければ何も始まらなかった。通訳氏はいつになく慎重だった。インタビューは自分がするので離れていて欲しいという。都会ならともかく、田舎では注意が必要だと言うのだ。
 僕はその時、ここが社会主義の国であることを思い知らされた。インタビューの必要な取材は、特に田舎では、新聞ビザ(取材ビザ)が絶対に必要だったからだ。僕は通訳氏を遠巻きに眺めていた。しだいに彼の周りには、野次馬が取り囲んだ。
「キャパ(その死)」によると、キャパは1954年5月25日、ナムディンのモダンホテルを朝七時にジープで出発し、「ナムディンからタイビンに沿って20マイル(32キロ)東にある、ドアイタンとタンネ」という小さな前哨陣地に向かった。
 現在も小型のフェリーボートでしか渡れない川幅約100メートルの紅河を、キャパたち一行は渡し船で超え、9時から10時の間にドンキトンの要塞に到着した。その先は道路が破壊されていて復旧するまで数時間足止めを食らうことになる。ドアイタンに到着したのは午後2時25分頃だった。そして午後3時頃ドアイタンから1キロ、タンネからは3キロ手前の、小川の堤防が左に曲がったあたりの土手でキャパは地雷を踏んだ。
 ドアイタンもタンネも小さな要塞の名称だ。現在のヴェトナム人にはそんな名前はまったくわからない。それでも予想したあたりに、タンネに似たタンラップという、地名があった。
 なによりも僕がその土地に立ち、困ったことは、「ナムディンからタイビンに沿って20マイル東にある、ドアイタンとタンネ」のくだりだった。20キロしかない。ナムディンから東に向かって20マイルを直線で結ぶと、ドアイタンの要塞はタイビンのはるか先になってしまう。どう考えたって矛盾している。
 距離が間違いで、方角は正しいとなると二つの要塞は30A号線上だ。しかし、キャパが最期に撮った写真と30A号線の風景はあまりにも異なっている。両側に水田が広がって右側には運河があるが、水田を突き抜ける道は土手と呼ぶほど高くないし、タイビンまでは、どこまでも一直線だ。
 このあたりは、1946年にはすでに運河と道路が一緒に完成したと、地元の70歳の老婆が証言した。1954年キャパが訪れた時と今と、この道路の風景はさほど変わっているとは思えない。
 僕は30A号線を車でなんども往復して、下りては歩き、キャパの写真の痕跡をさがした。もしかして、土手を削ったのではないだろうかとか。しかし、しだいに僕は本に書いてあったことが間違いじゃないか、キャパの最期を記したタイム・ライフ記者ジョン・メックリンの詳細な記述は細部において、勘違いや記憶違いがあるのではないかと思えてきた。
 結局僕はその記述を忘れて、キャパの残した最後のモノクロ写真に似た場所を捜すことにした。
 はじめに目についたのは、30A号線と直角に交差する南北に延びる紅河の堤防だった。右側に小川はないが、堤防の高さや、まがり具合はそっくりだった。僕はふと考えた。もしかしたらフランス軍は、現在のフェリー乗り場から、紅河を渡ってないのではないか。いや、もしそうだとしても、そのまま東には向かってはいないのではないか。なぜなら、その日の朝、キャパの残した午前中の写真、それは土けむりを上げながら未舗装の道路を進むトラックと二台のバイク、そして道路わきに避けるようにたたずむ、傘をさしたアオザイ姿の女性の、印象的なシルエットの写真。キャパはジープからそれを午前中の斜め逆光の状態で捉えている。その光の角度と方向から判断するとその道路は、ほぼ南に向かっている。キャパ一行は、ナムディンから東の方向ではなく、その時間、南に進路を取っていることを写真は物語っている。僕は一つの仮説として、ドンキトンの要塞やドアイタンやタンネは30A号線を挟んでそれぞれ南北に離れてあるのではないかと・・・・・・。
 キャパが5月25日に残した他の写真を仔細にみると、兵士がこれからまさに道路を横切ろうとする写真がある。その道路は地形や背景から判断すると30A号線そっくりだ。太陽の光は、ほぼ真上だから、正午過ぎ。ヘルメットの影をみると逆光だから、南から北に向かって歩いている。そして2時間ばかりの空白があり、写真集に発表されている午後3時頃の写真は二カット。一枚は、小さな運河を挟む土手の上を歩く兵士たちと横たわる死体。むこう側の土手はボケていてはっきりしないが作業しているらしいヴェトナム人の列。左に曲がったその土手の写真は、時間と影から判断すると北東に向かって進んでいる。
 そして最期のモノクロ写真。やはり太陽の影から判断すると、ほぼ真東に向いている。その土手は、東西に延びていることになり、たぶん30A号線に平行する南か北側の堤防ではないだろうか。
 僕は車で付近を走り回った。そこで一ヵ所そっくりな地形を見つけた。30A号線の南側だった。なんとその先はタンラップだという。しかし残念ながら堤防の右側に、小川はなかった。ただ、キャパの写真には、川は写っていない。ジョン・メックリンの記憶が間違っている可能性もある。僕はキャパの写真と同じようなアングルから撮ってみる。でもあまり感激はない。こんな景色は、ここらではありふれているような気がしたからだ。
 僕は、場所探しをやめた。
 特定するには準備が足りなさすぎた。思い込みで断定することはできても、僕は、キャパが死んだ真実の場所を知りたかったのだ。
 なぜならばキャパの最期の写真には、絶対に、キャパの死んだ場所が写っているからだ。
 それはキャパがかつて、世界で初めて人間が死ぬ瞬間の写真を撮ったように、キャパは世界で初めて、自分が死ぬ場所を撮ったのだ。

 僕は紅河をフェリーで渡り、対岸からキャパの死んだタイビン側を眺めた。
 きっと40年以上前でも、さほど変らぬ景色が広がっていたはずだ。だからキャパも同じようにこの風景を眺めている。
 ロバート・キャパも一ノ瀬泰造も、そして多くの戦争写真家がインドシナ半島で死んだ。皆、このインドシナ特有の、湿度が飽和した空気に体をゆだねながら、顔の汗を、ボタボタと胸のカメラに落として歩いたのだと思う。そして、湿気でベトつくフィルムを装填するたびに、それぞれ自分の国の気候を思いだしたに違いない。

 写真家は、目で世界を観察するけど、空気の匂いや流れ、鳥のさえずり、木々のそよぐ音、その土地の味、そして座り込む地面の感触にも敏感だ。理屈でなく、五感のセンサーをフル動員して、回りを見回す。陽の昇る時間、沈む時間、光の方角、順光、逆光、サイド光、トップ光、フット光、水面の輝き、木々の蔭。雲の流れ。 
 一見そんなことに無頓着にみえるロバート・キャパと一ノ瀬泰造も、回りを見回し、戦争写真には関係ないが、写真家らしく、光と影を気にして、ヴェトナムを、そして自分の未来を、見つめていたのだと思う。