ここはベトナムに関した映画評のサイトです。評を書いてみたい方は、
[cafeterrasse]にあるE-mailから直接書き込んでください。


●「地雷を踏んだらサヨウナラ」 感想 横木安良夫

「地雷を踏んだらサヨウナラ」評 神田憲行 

ベトナムで日本語学校の先生をした経験もあり、その著作もある、アジア大好きライター、友人でもある神田憲行氏が映画評を書いてくれた。僕とは違う感想なので興味深い。

●「季節の中で」評 神田憲行 

●「季節の中で」評 横木安良夫


「地雷を踏んだらサヨウナラ」の感想 横木安良夫

東京ファンタスティック映画祭99のチームオクヤマスペシャル、浅野忠信主演「地雷を踏んだらサヨウナラ」の試写を、満員の熱気が充満した渋谷パンテオンで見た。この映画は松竹を解任劇で退社した奥山和由氏が初めてプロデュースする話題作だ。
僕は拙著「サイゴンの昼下がり」で、この映画の主人公、僕の大学時代の先輩、一ノ瀬泰造氏について書き、ホームページでは、彼の大学時代の写真も紹介している。そういうわけで、「ONE STEP ON A MINE IT'S ALL OVER」「地雷を踏んだらサヨウナラ」のホームページとリンクもしている関係もあり試写を見させてもらうことになった。
ただこの映画を見る前に、偶然この映画についての映画評を、(BY 映画批評家・服部弘一郎氏)インターネット上で読んでしまった。Hattori氏の辛辣な批評は、僕がこの映画を観るまえから、ある種の潜入感を持つことになったかもしれない。いや、ある意味で僕は客観的にはなれない、なぜか当事者のような気持ちでこの映画について期待をしていたので、酷評をくつがえすべく、映画を観た。

結論から言えば、熱演した浅野忠信の映画としか言えない。

いったい一ノ瀬泰造の何を描きたかったのかが、さっぱり伝わってこない。たしかに浅野忠信と現実の一ノ瀬泰造の風貌はよく似ている。それがどれだけの意味が
あるかはわからないが、伝記的映画としては、意味があるのかも知れない。ただ現実の一ノ瀬はもう少し小柄で、がっちりとしたスポーツマンタイプだ。いやそんなことはどうでもいいのだ。映画はあくまでフィクションであり、現実の一ノ瀬はモチーフでしかない。しかし、この映画は現実の一ノ瀬と映画の中のTAIZOの関係があまりにご都合主義だ。事実として伝わる一ノ瀬のエピソードの羅列に終始して、その動機や生き方について、映画的な肉付けはない。

K. Hattori氏に言わせれば、「思いればかりで説明のない欠陥映画」というわけだ。僕はHattori氏の言うように、ベトナム戦争について、またなぜ一ノ瀬が
戦争写真家になり、なぜベトナムやカンボジアにゆき、アンコールワットを命をかけて目指したのか、ちゃんと説明するべきだとの意見には、完全には同意できない。

かつて、一ノ瀬の先輩にあたる著名な戦争写真家沢田教一のドキュメンタリーを
手がけた監督、五十嵐匠氏は、そういうことばによる説明を極力排した映画こそ映画だと、信じているのだと思う。映画は全てを言葉で語らなくとも、観客の想像力が補填すればいいのだと。僕はどちらかというと、それに同意する。世界史を知らなくても、戦争映画を理解することはできる。
しかし、それでも、Hattori氏のいうように、なぜ一ノ瀬は戦争写真家になり、カンボジアに行き、アンコールワットを目指したかの動機を、やはり説明する必要がある。それはことばではなく、映像で。事実関係としてではなく、一ノ瀬の感情として。

この映画に欠けているものの一つは、時代背景だ。一ノ瀬がその時代どんな感情で生きていたのか。ファーストシーンで、ベトナム戦争の記録フィルムが流れているけれど、はっきり言って、そのフィルムの使い方はステレオタイプで超安易だ。
その時代のどこに一ノ瀬が生きていたというのだ。そんな表現はどこにもない。
あれでは安易な、モンタージュにしかなっていない。

あの時代日本のおおくの若者は、ベトナム反戦を叫んでいたが、わざわざベトナムに行きたいと思った人間は少ない。一ノ瀬は、そこに戦争があるからカンボジアに行ったのではない。戦争写真家として行ったのでもない。一ノ瀬は戦争写真家になりたいためにカンボジアに行ったのだ。
この映画を観た人間がベトナム戦争とは何かを知らなくてもいいけれど、一ノ瀬がその戦争にひかれた理由は知りたい。そこのところが少しも描かれていない。

1960年代は、若者たちの反逆の時代だった。ベトナム反戦、ヒッピー、ドラッグ、世界的なスチューデントパワー、ETCとエネルギーが最高に爆発し。そしてその象徴として、そのシンボルとして、若者の音楽ビートルズを核としたロックムーブメントがあった。世界中の若者は熱病のように、大人に反抗して、既成の価値観を破壊した。そんな時代に一ノ瀬は生きていたのだ。ただ一ノ瀬は、日大芸術学部の学園闘争には参加していない。遠巻きに写真を撮っていたにすぎない。いや、きちんと写真は撮っていた。
彼はどちらかというと、体育会系のフィジカルな思想の持ち主だった。いや体育会のような、徒党を組むことを嫌い、一匹狼のアウトサイダーだった。彼は、寡黙であったかも知れないが、静的ではなかった。時代のあら波を泳ぎたがる動的な人間だったのだ。
1970年代に入ると時代は突然落ち着いた。ビートルズよりも、ピンクフロイドが体に染みた。左翼運動は急速にすぼみ、セクト争いに終始した。若者のエネルギーは消費社会に、モータリゼーションやスキーに興味が向かった。もちろん異性への興味は普遍的だ。だから今の時代の原点だ。ベトナムからアメリカが手を引きはじめ、日本人の多くはベトナムから興味を失せはじめていた。
そんな時代、一ノ瀬はカンボジアに行った。なぜ?

一ノ瀬は60年代の熱気に乗り遅れたのだ。カメラを持ち、全共闘運動をアウトサイダーとして眺めていた。田舎に育ちの素朴な青年は、ボクシングに興味を持ち、4回戦ボーイまで経験する。ただ彼はそのあいだ時代に深く挑発されていた。彼の血は沸騰していたのだ。
彼は、自分の沸騰したエネルギーのはけ口を、捜していた。
いや、すでに戦争写真家としてスターだった沢田教一を、一ノ瀬がカンボジアやベトナム行きを決意したときには死んでしまっていた沢田を、遠くから見つめていた。報道写真家を目指していた一ノ瀬にとって、なまぬるいその時代、唯一の
サクセスストーリーのビジョンだったのかもしれない。だから沢田のようにUPI東京支局で働き、沢田のように自費で、ベトナムに行った。彼は特派記者、コレスポンデントではなく、ストリンガーと呼ばれる一発屋だった。

だから、一ノ瀬がなぜアンコールワットを目指したか?というと、それはベトナム戦争の中心が、そのときすでにそこにしかなかったからだ。一ノ瀬にとって、命をかけて撮った写真も、アメリカが手をひきはじめた時代、その戦争は、南ベトナムと北ベトナムの、傀儡政権と解放政府のあるいみでいったら内乱状態の、戦争写真を、世界の報道写真の消費国アメリカが、高く買わなくなっていたのだ。だから一ノ瀬の戦闘写真にアメリカ人はほとんど写っていない。皆無とも言える。一ノ瀬は、商品的価値のある写真を撮りたかったのだ。それがアンコールワットだったのだ。アンコールワットに潜入すればピューリツア賞ものだった。

戦争写真家として価値ある写真はそのときにはもうそこにしかなかったのだ。
この辺のことは、拙著「サイゴンの昼下がり」を読んで欲しいのだけれど。
そのほか一ノ瀬のアンコールワットにひかれる動機の興味ぶかい洞察とし、
フォトジャーナリストの早川文象氏が指摘した、アンコールワットの立ち並ぶ尖塔とそっくりな形の、桜山という山が一ノ瀬の郷里武雄にあるという。一ノ瀬はそこで子供時代遊びまわったという。早川氏はそれが、一ノ瀬の原風景ではないかと推察している。映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」で一番好きなシーンはラストの自転車を漕ぐ太股のアップだ。ボリュームのアップした音楽。そこだけがこの映画で躍動していた。このシーンからこの映画が始まっていたらずいぶんと違ったかもしれない。嫌いなシーンは、人が死ぬ場面だ。それぞれのシーンは、映画的なご都合としか思えない。もりあげるための、お涙ちょうだい。戦争はもっとドライで、刹那的だと思う。   
主演の浅野忠信氏は舞台挨拶で、現実の一ノ瀬との距離感に悩まされたといった。
本当にそう思う。もっと自由な浅野忠信であってよかったと思う。そのほうが、ずっと狂気の一ノ瀬泰造を表現できたと思う。本当の一ノ瀬は、もっともっと、邪気のように無邪気な魅力ある狂気の人間だったと思う。そしてボクサーであったように、素晴しい反射神経を持った若者だった。なぐられてひるむような人間ではない。有名になりたくて、女にもてたくて、親孝行したくて、勇気を褒められたくて、それじゃ演歌の世界のようだけれど、いや、ちゃんとROCKして、未来を夢見て、まだまだ、人生は何かと考える前に死んでしまったのだ。そんな一ノ瀬泰造は、いったい今の時代に何なのだろう?彼は、何をメッセージしているのだろう。
映画はそのことを何も答えてくれないけれど、これからいろいろ一ノ瀬物がでてきて、総体として、一ノ瀬がこの時代に何を問いかけているのかが、わかるかも知れない。
この映画はそのために意味のある映画であって欲しい。
「一ノ瀬泰造とは何か」を今の時代考えることは意味があると思う。


「地雷を踏んだらサヨウナラ」 神田憲行 評

 やっと日本にも世界に通じるベトナム戦争を背景にした映画が誕生した。

 泰造がカンボジアに渡った1972年のベトナム情勢といえば、ベトナムから米軍の撤退が始まり、翌73年にパリ和平協定が調印、米軍の撤退が完了しようかというときである。カメラマン沢田教一はすでに伝説を残して70年にカンボジアで亡くなっており、近藤紘一も72年に再婚している。つまりベトナム戦争は「米軍の負け」がほぼ確定して、あとは、いつ・どのような形で、北ベトナム軍の勝利が得られるのか、政治もジャーナリズムも焦点はそちらに移っていたようだ。

 遅れてきた戦場カメラマン、泰造が取材対象をまだ動静が流動的なカンボジアに移したのは自然な流れであり、そこからさらにアンコール・ワットに絞り込んだのも、当然である。

 映画で泰造がアンコール・ワットに初めて遭遇するのは、戦闘が一段落して、小高い丘に登り、ジャングルの中から一瞬だけ覗かせるその尖塔を発見したときである。浅野忠信演じる泰造が夢中でシャッターを切りまくるこのシーンについて、五十嵐匠監督は
「“青年の功名心“からのアンコール撮影が、彼方にアンコールを見るうちにいつしか『撮らねばならぬ』という自意識に変化していったのではないか」
 と演出の背景を説明している(パンフレットより)。

 実はアンコール・ワットには密林の中からも、ちらり、ちらりとその「偉大な姿」が拝めるよう、宗教的演出が施してあるという説がある。私も実際にバイクタクシーの後ろに乗せられてアンコールを訪れたとき、林の中から神殿の壁が立ちはだかるように現れてきたときは、落涙しそうなほど感動した。だから浅野・泰造が「アンコールだ」と叫びながら撮す姿に「そう!」と映画を見ながらすんなりシンクロできた。

 この共感は実際にアンコールを訪れたものにしかわからないし、アンコールに惚れたものにしか持ち得ない(それはこの映画の欠点かもしれない)。おそらく五十嵐監督はカンボジアとアンコール・ワットを愛し、心の内に十分に消化し尽くしている。だからこそ得られた着眼点であり、私が「世界に通じる」と評価するのもその所以である。 ベトナムやあの戦争を舞台にした映画・小説は数多あるが、たいてい原作と舞台装置に引きずり回されて消化不良に終わり、ただ「流行の舞台だから借りました」だけで終わってしまっている。対象に入れ込む姿勢が伝わってこなかった。
 だが五十嵐監督は流行とか、売れそうとか、そんなものは関係なかったのであろう。本当にアンコールと、一ノ瀬泰造が好きで、内なる存在だけを描ききった。

 そして五十嵐の「泰造の解釈」は、実際の泰造を理解する上でも正鵠を得ていると思われる。それは彼が残した、アンコールへ通じる一本の道を撮した写真からわかる。彼は功名心から始まり、自覚していたかどうかはともかく、アンコールに魅せられてしまっていた。彼の悲劇はこの「手段の目的化」から始まっていたのかも知れない。

 間違えてはいけないと思うのは、上記の文脈で考えたとき、この映画の主人公は泰造とアンコール・ワットの二つである。だからラストシーンで事実とは違っても、泰造はアンコール・ワットと出会わなくてはならなかったのだ。

 劇中、怪しんだところが2点ある。浅野の着ているTシャツと赤いレインコートだ。渋谷系ファッションで「いまどき」過ぎるし、そもそも危険な戦地取材する者が、撃ってくれといわんばかりの目立ちやすい赤い服で全身を包むだろうか。しかしこれも、
「渋谷を歩いている若者をスポイトですくい取って、戦場に落としてみたら、どういう行動をとるか見てみたい」
 という五十嵐監督の意図からの演出だろう。一種の危険な賭である。ヘタをすればたんなるアイドル映画が平板な青春ストーリーに陥ってしまう。それをギリギリのところですくい取とったのが浅野の存在感と演技だ。あの現代風の切れ長の視線と華奢な身体が、映画では戦場カメラマンのいかがわしさと狂気を十分に現している。もう一ノ瀬泰造は他の役者ではやれなくなってしまった。

 泰造が弾薬輸送船に乗り込むシーン、ベトナム女性レファンから投げつけられる言葉に、私は思わず苦笑いしてしまった。私もかつてつき合っていたベトナム女性から同じ言葉を突きつけられたからだ。
「You are selfish」(あなた、自分勝手よ)
 もっとも泰造の場合は意訳すれば「行かないで」だが、私の場合は「とっとと出ていけ、このスットコドッコイ」、しかもいかがわしい宿でお互い素ッ裸というトンマな状況であった、という違いはあるが。現実は映画ほど格好良くないのである。

 

神田氏著作紹介のホームページがあります。

■http://www.bookclub.kodansha.co.jp/Scripts/bookclub/intro/intro.idc?id=6783

■神田氏へのE-mailはここをクリックしてください。

「季節の中に」の神田憲行評

 途中トイレに行きたくなったが、あらかじめパンフレットで仕込んだ「あらすじ」からいくと「もうすぐ終わるだろう」と思ったので我慢した。でもいい加減我慢できなくて、ふっと腕時計で確認するとまだ1時間しか経っていないのがわかり、堪らず席を立った。

 「季節の中で」は私にはその程度の映画に過ぎない。上映後、ロビーに貼られた絶賛の映画評の数々を見て、苦笑を禁じ得なかった。唯一、女優・石田ひかりの「見終わった直後の感想は、うーん」が私の心情に近い。

 どのエピソードも演出がクサくて中途半端なのである。
 たとえば元米兵がサイゴンの現地妻と自分の間に出来た子供を捜しに来る話。やっと米兵は子供(といっても成人しているが)を見つけ、喫茶店で初めて話し合う。子供の表情は最初は硬いのだが、それも彼からハスの花をプレゼントされ、笑みをこぼしてしまう程度でしかない。カメラはお互いうち解けた話をしているシーンを窓の外から映し出して終わるのだが、そりゃないだろう。自分を捨てた父親とそんなに簡単に和解できるのか。

 むしろ『天と地』(オリバー・ストーン監督)で難民で米国に逃げた主人公が久しぶりに帰国して、兄弟から最初に投げかけられる言葉が悪罵だったように、恨み節から始まるのが自然ではないか。このエピソードには「せっかく会いに来てやったんだから」という米国人の言い訳めいた視線を感じてしまう。よしんばその場は話し合いが出来ても、この親子の葛藤は再会から始まるはずだ。つまり中途半端なのである。

 シクロと娼婦の恋もそう。途中から私は「このシクロはこの女とヤらないとかぬかすだろうな」と思っていたら、本当にそうだったので、笑いをかみ殺すのに苦労した。しかもシクロが「もっと自分を大切に」と言いながら娼婦に渡す本のタイトルが「個性の輝き」。笑うでしょ、笑うでしょ。

 おそらく監督は「社会の底辺に生きる者の純愛」を描こうとしたのだろうが、「娼婦=社会の底辺」という位置づけ自体が類型的だし、二人が結ばれてハッピーエンドなのも納得いかない。身体売っていた女性と、ど貧乏に喘ぐ二人は今後もっとお互いについて苦しむはずだ。ここでも中途半端。

 他にもストリートチルドレンの少年が、ホテルのロビーに入って別世界を感じる「貧富の差」の演出のクサさとか、「ハンセン氏病」詩人の詩がおセンチでちっとも感情移入できないとか、この映画には突っ込みたいところがいっぱいあるがやめておく。

 監督のトニー・ブイは二歳のときにアメリカに移住した在外ベトナム人(アメリカ国籍を取得しているかも知れないが)。と聞いて我々が想起するのは、「青いパパイヤの香り」「シクロ」を撮ったフランスに住む在外ベトナム人監督、トラン・アン・ユンである(ネットで調べたら「トラン」となっていたのでそう書くが、もしこの監督の綴りが“Tran“ならベトナム読みは「チャン」である)。

 しかトラン監督がフランス国内の撮影だけで「パパイヤ」で熱帯の色彩感覚を、「シクロ」でサイゴンの裏通りに漂ういかがわしさを見事に演出しきったのに対して、トニー・ブイはベトナム・ロケをしながら、なにも見ていないしなにも描いていない。我々はそろそろ「ベトナム人監督」とか「ベトナム・ロケ」とか、背景事情を斟酌せずに正味の「映画作品」で評価すべき時期に来ているのではないだろうか。とくに海外制作のものに関しては。

 この映画は「サンダス映画賞」のグランプリを獲得している。どのような賞か知らないが、まだまだ映画界には上述したような作品の質ではなく背景事情で評価するような基準が存在しているらしい。そのことを知る意味にだけ、この映画を観る価値はある。あ、でも観る前にトイレは忘れずにね。


「季節の中で」"Three Seasons"横木安良夫 評

 神田君の酷評したこの映画を、僕は正反対に感じた。それは監督であるトニー・ブイがボートピープルとして渡ったアメリカ国籍ベトナム人、それもハーフだった(?さだかじゃないけれど)とか、実際この映画を語るため枕のみたいにそのようなことが強調されているけれど、そしてアメリカ初のベトナム映画であるとか。僕はそんなことを知らなくても、きっとこの映画に感動したと思う。

神田君の指摘はもっともだと思う。トニー・ブイは実際、現実のベトナムを描こうとはしていないのである。風景は紛れもなく現代のベトナムだけれど。彼はあくまで自分の内なるベトナムの物語を表現したにすぎない。いやベトナムに対してリアルになれない何かが彼にはあるのだろう。だから元アメリカ兵とその娘の場面は、はっきり言って奇麗ごとすぎる。しかしあの場面をリアルに描いたら、違う映画をもう一本必要なぐらい大きなテーマだとも思えるし、今回はそれがテーマではない。監督はそこの描写は封印(逃げているといってもよい)していると思う。そのうち描くんじゃないかな。

彼は、今のアメリカ人にとって「ベトナムは何か」ベトナムがわれわれに何をメッセージしているかを撮りたかったのだと思う。正確にいえばアメリカ人である自分の血に流れるベトナムとは何か?アメリカ的な価値観で育った彼が、19歳で初めて見た祖国ベトナム、5時間で幻滅し帰りたくなったベトナムはなんだったのかと。そしてそこで見い出したのは、泥沼(mud)のベトナム戦争という言い方があるように唾棄すべき、未開のベトナムにという泥の沼に、彼自身が発見したアジア的文明を、象徴的に(花)蓮を使って表現したのだと思う。その見方はとても西洋人的だと思うが、まぎれもなく彼の心はアジアに惹かれる東洋系西洋人なのだ。

だから、それぞれのエピソードは、社会の底辺の人々の純愛を描きたかったわけじゃないと思う。純愛どころか、もっと屈折した変態愛に近いものだと思う。娼婦がシクロのドライバーから、まじないのようにスプーンで背中に赤黒く痕をつける。次第に娼婦から毒気が抜けて行くさま。僕はあそこがこの映画のテーマではないかと思っている。テーマは大げさにいえばベトナム戦争の浄化である。そんなこと監督は思ってもいないかもしれないが、アメリカ人のベトナムに対する怨念、その社会で育った彼は、やはりその部分を浄化する必要があったのだ。だからこの映画は、ひたすら美しい。どこにも悪人がでてきやしない。きっとアメリカではこの映画は絶賛されたと思う。流行の言葉でいえば、「癒し」の映画なのだ。

神田氏が「地雷を踏んだらサヨウナラ」で泰造がアンコールワットを初めてみた感動を、映画の核と捕えて、そこが表現できていることで絶賛しているが、僕はあの映画が一ノ瀬泰造の何も描いてないことに落胆した。「季節の中で」では逆に僕はベトナムに住む人間の目ではなく、異邦人の目、暑さに麻痺した酔眼で眺めた、ベトナムに共感した。僕はベトナム人ではない。そしてトニー・ブイもまた異邦人の眼なのだ。

蓮の池の場面では、映像を見ながら僕はベトナムにこんな場所があることを知らなかったことを悔やんだ。しかし制作ノートを読んで蓮の花が作られたものであることに安心した。(こういうことって、感じ方の問題で、裏切られたと感じる人もいると思う、例え映画でも)。もしあの場所があるのなら行ってみたいと思った。

僕はこの映画のストーリーの平凡さに、辟易とはしない。人間の関係の絡まない映画も嫌いではないからだ。この映画はそれぞれのエピソードが、サイゴンのごく狭い一角で、無関係に進行して平凡に過ぎ去って行く。
金持ち相手の悩める娼婦。ストーカーの様な哲学的なシクロの男。僕はただ眺めるだけの、この変態男が好きだ。まるでカメラマンみたいだ。そしてストリートチュルドレン。近代化の渦に、まだ巻き込まれていない蓮売りの少女。そして別れた娘を探す元アメリカ兵。その誰もが大きな事件に遭遇することもなく、罵声や怒号もなく、退屈に、平和に過ぎ去って行く。まるで夢のなかのストーリーだ。
そこにはアメリカ映画の要素が何もない。10分で退屈して帰る客もいるかも知れない。しかし映像と音楽と、登場人物の息づかいに気持ちをあわせていると、その素朴さに不思議な快感と感動を感じるはずだ。そして映像と音楽の明快さは紛れもなくアメリカ映画だった。


横木安良夫

[day by day]より

1月20日 今日Bunkamuraでアメリカ製ベトナム映画「季節の中で」"Three seasons"を観た。評判にたがわず、素晴しい映画だった。はじめて長編を撮ったこの監督は、1975年、サイゴン陥落のおり、2才でボートピープルとして一家がアメリカにわたった、TONY BUI。彼は19才のとき初めてベトナムを二週間訪れた。そのときはショックで5時間後には帰りたくなったそうだ。ところがアメリカに帰るとすぐに戻りたくなったという。この映画は、アメリカとベトナムの、初めての交感だと思う。交感が描かれているという意味ではなく、アメリカ人とベトナム人が協力して作り上げたベトナム映画という意味でもあるし、ここにあるのはアメリカとベトナムの戦争により引き起こされた悲劇のかずかずを、この映画によって、「浄化」するこころみだと思う。現在の一見美しくないベトナムの裏通りやその生活のなかに、アメリカ的な価値観からは貧しいだけにしかみえない濁った泥水のなかに、美しい蓮の花が咲く。ベトナム系アメリカ人であるTONY BUI自身の心の「浄化」がテーマではないだろうか。