■一ノ瀬泰造19歳の肖像 

■1967年、日本大学芸術学部のサークル、

フォトポエムの(なんともロマンテチックな名称のサークルだ、時代を感じる)

6月の展示会準備のおりの雑談。

彼は1947年、昭和22年11月1日生まれだから、この時若干19歳だ。

このころの学生は、彼のように時々学生服で登校した。

翌年学園紛争が始まるが、このころはそんな予感は全くなかった。

■同じく1967年、秋の芸術学部学部祭の準備にかかる一ノ瀬泰造氏。

この時代、芸術学部は7学部の1年生から4年生までが江古田のキャンパスで学んだ。

4年生や留年した先輩はおじさんという雰囲気で、世代の差を感じた。

そういうものが一体となり、今の大学よりも活気があった。

今の大学のように、学園を分断するのは、学生運動を抑え込む一つの手段なのかもしれない。

今の大学のことは知らないが、サークル活動(昔はクラブ活動と言っていた)はとても盛んだった。

当時、大講堂のしたはピロティになっていて、各サークルとも、ここで作業をすることが多かった。

■1967年、秋。クラブのパート会の共同制作で鎌倉海岸に行った。

撮影のアイデアや段取りは全て先輩たちがやっていたので、

僕や一ノ瀬さんは蚊帳の外。海岸で遊んでいた。

僕のこの頃のコンタクトプリントには、こんなふうに一ノ瀬氏が何度か登場する。

友人である同級生の写真を撮ることは珍しくはないとしても、

なぜか先輩である一ノ瀬氏が時々登場する理由は、今ではすっかり忘れてしまった。

先輩後輩の結びつきしかなく、特別仲が良かったわけではないので、

彼の何にひかれていたのだろうか。


■1967年。大講堂の下に、プレハブ作りの掘っ建て小屋があり、

各サークルは仕切られた三帖ぐらいの狭いスペースに押し込められていた。

その部室にて。一ノ瀬さん(僕は彼をそう呼んでいた)は、無口でシャイな性格だった。

いつも、アウトサイダーのようにクールに部会などに参加していた。

なぜか、コンパや合宿には参加しなかった。

このころすでに、ボクシングを初めていた。夜の新宿も徘徊していた。

いまこの写真をみると、初々しいが、このころの僕には、ずいぶんと大人びて見えた。