横木安良夫写真展「GLANCE OF LENS 2011〜レンズの一瞥〜」

BLOG (在廊予定をUPしています)

3月4日(金)〜4月16日(土) PM1−7 日曜、月曜 休廊

Gallery BLITZ Tokyo アクセス

横木安良夫の写真について アサヒカメラ 2008 7月号

ギャラリストBLOG


街を歩く。クルマに乗り、地下鉄に揺られる。

いつのまにか未知の土地 を歩いている。

突然、耳の奥で誰かが囁く。

「シャッターを切れ」と。

目の前にはありふれた風景が広がっ ている。

通り過ぎる人々もごく普通だ。

「眺めてないで、早く撮れ!」

僕はカメラを構える。頭のなかは空っぽだ。

「撮ればいいんだよ。わからないんだろう。だから撮るんだよ」

もはや指令に従うしかない。それは潜在意識。

言葉にならない「衝動」、それこそが主題。

カメラによって世界は断片に切り刻まれる。

薄片となったそれは記憶として無限に増殖する。

そして再び僕の網膜に飛び込んでくる。

それこそが真実の世界なのか。



この写真展に、いわゆるコンセプトは「ありません」

写真を撮るという「衝動と行為」がコンセプトなのです。

昨今の、現代アートにすりよった

コンセプトの証拠物になり下がっている

観念に隷属する写真世界を

無視する実験。

写真がまさに現代アートに組み込まれていこうとすることに

写真家たちは、何か喜びを感じているのでしょうか?

広告写真が衰退し、ドキュメンタリィ(報道)写真の行きどころがなくなり、

どちらも写真としての力が無くなったわけではなく、

その土俵だった既存のメディアが衰退しただけの話なのですが、

広告や報道で食えなくなりつつあるという現実、

(例外はたくさんあり、きっちり稼いでいる人もいます)

それは写真のための新メディア誕生の、発明の苦しみでしょうか。

写真のテクニックが、平準化し、プロのテクニックなんてほぼ消滅しかけ、

誰でも写真が撮れる今、

写真は職人の時代と、技術を学べばプロになれた時代の終焉を迎えています。

あろうことかプロの技術は、レタッチャーにワープしました。

悩み続ける写真家は

現代アートとしての写真に活路を見いだし、

そこにはクンクン漂う幻想が蔓延、

現代アートにすり寄りよって、そのルールに媚び、

市場に参入して認知され、その価値があるものがよい写真とされるナンセンス。

写真は生まれたときから、現代アートであります。

ただ非常に美術に似ていたため、

初期には美術の代用品だと誤解されただけのことです。

もともと、美術の真似をする必要はないのです。

全能の「神」の創造物に近づきたいとの願望の結果が芸術だとすると、

写真機という機械は、神の才能をオートマチックに、実現してしまった奇跡なのです。

初期の銀板写真は、現実世界の光の一粒一粒を、レンズを透過することによって銀板に潜像として潜伏させ、

それを可視化するため化学変化させたものです。

それは自然=神という思想の通り、オカルトに近かったものでしょう。

初期はモノクロームだったことが、せめてのなぐさめだとしても、

この世に誕生した写真板上の銀化合物のエッジとグラデーションは、

まるで宝石のようにキラキラと美しかったに違いありません。

それこそが、Photograph(光の絵)だったからです。

これは神の手を借りた、人類羨望の本物の「芸術」です。

絵描きたちは、ショックのあまり戦意喪失したことでしょう。

同時に写真はすぐ構造上革命を迎えます。

世界を二次元にコピーできるのなら、その二次元の写真世界など実に簡単にコピーできる。それはオリジナルの複製という創作です。

それこそが、「反芸術」、「現代アート」の発明だったのです。

現代アートが、タブローの否定、既存の「芸術」の否定から始まり、

デュシャンのコンセプトこそが、あたらしい「芸術」なのだとするならば、

その作品「泉」の実際物、便器はまるで「現代の写真」のように思えます。

見方を変えれば、ただの便器が芸術になる。

写真はデュシャンの「便器」と同じなのでしょうか?

写真は便器ではなく、実はデュシャンのコンセプトの側にあります。

写真を撮ることは、世界をただ複写するのではなく、

批評であり、世界の発見です。

あたりまえに眺められていた世界は、

写真に撮ることで、見方が変わるのです。

だから写真は、意識しようがしまいが、当たり前に現代アートなのです。

だからことさら、写真がアートだなんて言わなくてもよいのです。

今回の写真は、この10年くらいの間に撮ったものから、

横木安良夫という写真家にとって何がしかの痕跡を含んでいる写真を選んでいます。

それは、なぜか気になるものや、多くの人に気に入られていたり、

特別な場所に立ち会った高慢さ、甘い個人的な感情の記憶、

ひりひちとした快感、羞恥、誇りであったりと、実は、虚栄心、物欲、嫉妬心などなど、

無意識、意識的を問わずいっぱにちりばめています。

写真とはロラン・バルトのいうノエマ、《それは=かつて=あった》でしかないとの実感があるとしても、

ステュディウム(コンセプト)ではなく、プンクトゥム(心の刺し傷)としての写真を選びたいとのジレンマは、

僕を翻弄します。

さあ、盛大に笑ってください。

「ふぁっ、ふぁっ、ふぁっ」って。


70x100 15点

10x12インチ 12点

すべて販売しています。


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