「前衛としてのオリジナルプリント売買」


★なんて、たいそうなタイトルをつけてしまいましたが、写真を買い、

壁に飾ることは、前衛になりえるのか、ということを議論してみたいと思っています。

★写真を所有する、買うっていったいどういうことだろう?

●欧米では写真の売買が活発に行われているのに、

日本では一部のスノッブな人たちの趣味の世界でしかない。

●写真とは「撮るもの」「見るもの」であり、「所有する」、「買う」という発想がないからだろうか。

●そして多くの言い伝え。日本家屋には写真を飾る壁がない。

●写真は、絵とくらべてランクが下。写真は芸術じゃない!

●だいたい、写真を売っていることすら多くの人は知らないのではないか。

写真展に行くのは見るためであり、買うためではない。

写真展というメディアで、写真を見に行くためだ。美術館に行くのと同じ。

お手本である立派な写真を「生」で見る。それが醍醐味?

「この写真のグラデーションを見てください。美しいでしょう。

銀塩プリントでしか再現できない美しさですよ。だから価値があるのです、印刷じゃ絶対にわかりません」

● 芸術は高尚なもので、見るもの、あがめるもの。

● 自分のものにしようなんて大それたこと。日本人は、勉強が好きなのだ。

いいものを見て、感動して、記憶にとどめる。でも所有して毎日眺めることがどんなことか考えたことがあるだろうか。

● 日本で写真を買うのは一部のコレクター?たしかに、貸ギャラリー以外の写真ギャラリーの敷居は高いぞ。

あんたたちの来る場所じゃないよ、と拒否しているよう。

素晴らしい。見るだけでもありがたい。こんな巣晴らしものが買えるわけはない。

「いったいこの写真はいくらするのか」

聞くのも卑しい。何しろ芸術を買うのだ。

「物」を買うようにはいかない。値段を聞くのに勇気がいる。

それも何十万、何百万、何千マン持っていたら、札束で顔をひっぱたくように、どうどうと値段を聞けるけど。

ほんの数万円で買う「芸術作品」なんて、自慢できない誇りが持てない。

絵にしろ、何にしろ美術を収集するひとは皆値段を自慢する。内容なんて二の次。

写真はその内容、それを選んだセンスを自慢するしかない。

しかも友人に値段を聞かれた、3万円だよ。

「なんだ、そんなものか。そんなに安いのが芸術なの?価値がないということか、ははは」

それなのに、

「この写真が気に入ったぜ!すぐくれ」っていうほどには、買うには、決して写真は安くはない

写真を見て感動するなら、印刷物で十分。いや、写っていることに共感したいなら、WEBで十分じゃないか。

●そういう僕も、実は写真を買ったことがない。そんな人間が写真を買う気持ちがわかるものか。

写真をもらったことはある。いや僕は写真を買わない人間の気持ちが良くわかる。でもこれからは買うと思う。

僕と同じ気持ちの写真家の写真だったら。「前衛としてのオリジナルプリント」だったら買ってゆこうと思っている。

●写真を友人にあげたことはある。いやいや、実は僕は写真を売ったことが何度もあるのだ。

最初は1985年ニコンサロンでの写真展。かげでこっそり、欲しいという人に売った。

売ることなんて考えてもいなかったから、だから言い値だった。

ウーンじゃ、モノクロプリント額込みで10万円。

何の市場価値もないのに、大体市場価値なんて意味は知らなかった。

そんなに欲しいんだからこちらの言い値。

傲慢。30万なんて言ったらびっくりするかな、まあ10万円が妥当な線かな。

結局そんな奇特な人が2人いた。いまでも彼らの家のどこかに飾られているのだろうか。

僕が目覚めたから、その写真は価値がでるかもしれない。

● でも2点の写真が売れたとき、僕の直売だからマージン0、まるまる僕のもの。

ちょっと得した気分だった。その後、僕は何枚の写真を売ったのだろうか。

それなのに、その後ビジネスにも、僕が写真を撮ることの励みにも、まったくならなかった。

写真を売ると言うことの意味も意識もなかったからだ。 そんな僕は古いタイプの写真家だった。

写真とは見るものだ。「物」のように、商売を考えて写真を撮ったら写真の堕落。

“壁に飾るにちょうどよい”写真を、俺に撮れっていうのか!

僕は偽善者だった。そんなことをいいながら、写真での商業活動にいそしんでいたのだ。

自分の写真は、商売とは関係ないといいながら、写真で生計をたてているのだ。

●実はそのとき、写真を売ることに、気恥ずかしささえ感じた。いったいなぜだろう。

写真を撮ることは、社会を見ること。それはとてもジャーナリスティクな作業でもある。

写真が芸術だといわれようが、世界をオートマチックに複写することにはかわりはない。

そんな気分のときに、商業主義まるだしで、お金の話。

「旦那、今買うと将来高く売れますよ」なんてね。

そんなこと口がさけてもいえないだろう。

だいたい将来値あがるなんて、現状の日本ではありえない。

写真ばかりか、リトグラフだって、自分の家に飾っているあるかぎりは価値があり自慢できたとしても、

いざそれを売ろうと思ったら、無価値だ。海外のお墨付きがあれば少しは見通しあるだろうが、

手数料をひかれてそれでも惨憺たるものか。

●僕はかつて、写真を額に入れて飾るなんて、「お芸術」、絵画の真似!写真の堕落・・・・と思っていた。

●それはベンヤミンが悪い。「複製技術時代の芸術」!! だ。

複製してこそ現代の芸術。マクルーハンが悪い、「メディアはメッセージ」だなんて。

●写真は印刷物の原稿のようなものだった。印刷され、大量に消費されてこそ、ポップアート。

それを証明したのはロックやポップミュージックじゃないか。

肉声ではあんなに大きなムーブメントにはならなかったろう。

●仕事の写真は、セッションだ。全くひとりで好きなような写真を撮ることはない。

つねにある目的、コンセプト、等々を考えて撮る。プロフェッショナルな仕事だ。

それがひとたび、自分の作品となると、おじけついてしまう。

それは、精神衛生上の安らぎ、趣味の世界の気分だ。

いや、本当はそこで食べてゆく覚悟がないだけだ。

しかもその世界は、「心の裸の写真」だった。NUDE写真はかず限りなく撮った。

しかし自分の心が裸になる写真は、仕事では撮らない。撮る必要もない。

★時代が変わった★

世界はありとあらゆるメディアに囲まれている。いまやメディアは空気だ。

ないと困るが、いや、なくなったってたいした問題ではないだろう。

いや、きれいさっぱりなくなったらどんなによいか。

● 写真はコンビニエントなメディアの先棒、機関銃だった。

バリバリと世界を複製し、世界中に銃弾を撒き散らすじゅうたん爆撃だ。

今や世界は、複製の複製に囲まれ、すべてが情報となってしまった。

印刷された大量の写真は、もはやポップアートなんかではなく、

いまや情報のひと欠片になりさがっている。

よく言えば最先端、悪く言えばがけっぷち(後ろがない)、

世界の冠たる情報国家日本では、バーチャルこそ現実と、実は信じられている。

★ そんな時、写真、それもオリジナルプリントのことを考えた。

● 写真家にとって、オリジナルプリントを売るとはどういうことだろうか。

マスメディア時代の写真は、情報だった。その情報こそがアート、ポップアートだと書いた。

しかしいまや、情報は無料だ。情報を得ることにお金を払う必要があるのだろうか。

そしてデジタル時代を待つまでもなく、写真はカメラの進歩によって、撮影技術が不要になった。

いや、技術は日々変わるので、本当は教えることはできないのだ。

それはずいぶん昔から、僕が若かった時代だって、学校で教わる技術は、古臭く役にたたなかった。

いまや写真は誰でも撮れるのだ。学校で技術を身につけるなんて、無意味だ。

だから写真の学校は、技術より教えることがたくさんある。

どうやって写真家として生きて行くか。どうやって写真にかかわって生きてゆくか。

自分の人生に写真をどう役立てるのか。どうすれば生涯写真を楽しむことができるのか。

写真をどうやってサポートしてゆくのか。

いまや学校はこのことを教えなくてはならないが、どこも教えてはいない。

つまらない、古臭い役にたたない技術や精神論を教えているだけだ。

いまや、写真家のする仕事は極端に減った。

写真は誰でも撮れるからだ。プロである必要もない。

★あるとき、僕は「心の裸の写真」のことを考えた。

これまで寄生虫のように、マスメディアに密着し、生きてきたくせに、

僕の「心の裸の写真」とは、区別していた。それが、ふと、区別するものじゃないと気がついた。

音楽だって、セッションとソロは、「場」が違うだけで、優劣があるわけじゃない。

僕が撮った、一枚の写真と、例えばファッション写真のように、

モデルがいて、スタリストがいて、ヘアメイクがいる写真と何が違うのだろうか。

タレントの写真、広告の写真だって本当は同じだ。

違いはその写真が、誰の写真かというときに、著作権は僕にあっても、

場合により、肖像権、使用権は僕のものではないという権利関係の問題だ。写真の優劣ではない。

僕はかつて、商業的なセッションということは、僕のこころを売ることだと思っていた。

だからそれに対してのギャランティが発生するのだと。

広告はまったく僕のものであって僕のものではない。だからギャラが高いのだと思っていた。

●その逆を言えば、自分が好きにできる写真は、ギャラがなくても当然だと思っていた。

ぼくはそんな古臭い写真家だった。

そうじゃない。写真を撮ることは、労働の対価。

その写真を撮る行為、そして作品(写真)にたいしての「価値」に支払われるのだ。

価値があれば、高くなり、価値がなければ安い。それだけのこと。

●とにかく僕は、ある時オリジナルプリントを売ってみようと思った。

するとそこには大きな障害が立ちふさがっていた。

●まず、日本ではオリジナルプリントが売れないとされている。

それはどうしてなのかといろいろ考えるようになった。

●いや写真集だって売れない。もっとも写真集は流通の問題もあり、印刷するコストも高い。

日本の書店は雑誌店ばかりで、写真集を置く場所も、大型店以外はない。

なにより、写真集を買う気分が日本の書店にはない。

●そして写真を買うことを誰も知らない。写真は撮るものであり、見るものだ。

写真学校でさえ、写真を売り買いすることは教えない。

どうやったらオリジナルプリントを売る作家になれるのか、誰も教えてくれない。

まあ、そんなことで生活する作家がいないから、教えられないのだが。

例えば文学部を出たから、皆小説家になるのだろうか。

ほとんどの人たちは、文学にかかわらなくても、文学を支える側になっているのではないか。

編集者であったり。文章を書く人として生きてゆく。自分の子供に文学の素晴らしさを語る。

読むひと、少なくても支える側に多くがなっている。

今の時代はそんなことはないといわれそうだが、写真から考えたら、

まだそういう教育もしているということだ。

ところが写真は卒業してしまえば、写真なんて関係なくなる。

それは写真学校が、いまだ技術学校だと思われていたからだろうか。

役に立たない技術をたたきこまれ、少し写真から離れた生活をすると、もはや写真とはおさらばだ。

一部写真について考える学校もあるかもしれない。

しかしそれにしても、写真を撮ることばかりを教育して、

写真に関わる仕事が膨大にあるはずなのに、そんな教育をまったくしていないとは、どうしてだろうか。

●写真を買うことの本質

オリジナルプリントを買うことは、作家の「心の裸の写真」を買うことだ。

雑誌に載るときは、その雑誌のコードがある。

その雑誌のコードをクリアできたからこそ掲載されるのだ。

雑誌には、さまざまなタイプがあり、コードもさまざまだ。

ところが、写真をいざ売ろう、オリジナルプリントで生きてゆこうと思ったときに、

そんなギャラリーは日本には、ほとんどない。

東京では、「ツアイトフォトサロン」「PGI」そして「アートフォトサイトギャラリー」ぐらいだろうか。

歴史のある「ツアイト」1978と「PGI」1979は、

日本のオリジナルプリント、写真表現に多大な力を注いだし、影響も与えた。

しかし、ハイブローな写真を目指し(内容ではない)、

ある意味オリジナルプリントを、必要以上に高尚なものにしてしまったという、功罪もある。

なんといっても、そこで取り上げた作家の地位向上につくしたが、

写真家の作品を売ることにさほど熱心とは思えないのが残念だ。

いや、オリジナルプリントを売る文化の育っていない日本では、

そのやりかたしかなかったのかもしれないし、

写真芸術向上に十分寄与したではないか。

先駆者は、売るということより、写真を芸術と認めさせることが重要だった。

アート・フォト・サイト・ギャラリー・ブリッツは、

日本では極めて特殊だ。バックや資本を持たない、個人の商業ギャラリーだからだ。

もともと、ギャラリストの福川氏は、日本の銀行の海外支店にいたトレイダーだ。

若い頃から写真を買うことが趣味のコレクターだった。

あるとき銀行をやめ、海外の写真を売る、商業ギュラリーをオープンした。

出発点は、趣味とビジネスだ。

当時はいくつもそういうギャラリーがあった。その辺の詳しいことはここでは書かない。

そんな動機でOPENするギャラリーは、欧米ではごく普通に存在するらしい。

彼らは小さいながら一国一城の主だ。いわゆるギャラリーとはそういう、

個人、ギャラリストが経営することが普通だ。

欧米では、美術館以外、ギャラリーはすべてそんなふうに商業ギャラリーだ。

日本のようにギャラリーといえば貸しギャラリーというのは、世界でも例をみない。

写真にかぎらず日本では美術のギャラリー(画廊)も貸ギャラリーであり、

ときに企画展と同時にやっている。もっとも画廊は作品を売ることが目的だ。

写真の場合、貸ギャラリーで写真展をするのは、イベントである。写真を売るのは二の次だ。

そこに、写真は見るもので、買うものではないという、写真の特殊性がある。

写真を見るもの、撮るものだという刷り込みは、

日本のギャラリーが、カメラ、フィルムメーカー主導だったせいだろう。

メーカーにとって、写真が売れることは関係ない。

カメラやフィルムが売れればよいので、その販促として、ギャラリーがあった。

写真とは眺めるものだ。

学校でもそういう教育をしている。

ひとつ提案だ。

写真展会場に行って、買う買わないは別にして、所有してみようという気持ちで、

写真を見ると、どうだろう。それまで、まるで教養やセンスのリトマス試験紙のような写真が

突然、自分の生活、自分のバックグラウンドに入ってくるはずだ。

この写真は好きだけど、自分の家の壁に飾って毎日見るのは重すぎる。

この写真ならどこに飾れるだろう。この写真はわけがわらないが、なぜかひかれる。

ずっと飾っておいて、どんなふうに毎日違って見られる、想像すると楽しい。

そんなふうに、写真を所有しようとすると、写真の評論家ではなくなる。

それは、大げさに言えば、自分の人生や自分の生活に迎いいれることだ。

それは、100ドルの写真でも、1000ドルの写真でも同じことだろう。

いやあまり高い写真は、心配で光の当たらないところに保管したくなってしまう。

コレクターにそいう人たちがいる。

でもそれは写真の正しい所有のしかたではない。写真は所有したらどこかに飾るものだ。

そして日常、対話をするメディアだ。

●さて、日本にはまれない、欧米にある、ごく普通の商業ギャラリーとはなんだろう。

具体的は、日本で唯一ともいえる、写真専門の商業ギャラリー、

「アート・フォト・サイト・ギャラリーBlitz」(以下APSギャラリー)について書いてみようと思う。

●APSギャラリーBLITZは、目黒の閑静な住宅地にある。

通常のギャラリーのように繁華街にはない。それは写真をなんとなく見る人に来てもらいたいからではない。

見ること、買うことを目的にした人のみを歓迎している。

●雑誌掲載などと同じように、APSギャラリーBLITZにも、扱うにはコードがある。

それはギャラリスト福川氏の個人的なコンセプトと合致することだ。

彼は、写真をコンテンポラリーアートと位置づけ、アート写真と呼び、彼のテーマは「ファッション写真」だ。

ファッション写真といっても、流行としてのファッションではなく、文化としての「ファッション写真」だ。

写真が銀塩かデジタルにはこだわらない。それより作品のコンセプトを重視する。

彼の持論として、写真を買う人は、その作家のコンセプト(生き方、やりかた、表現の仕方)に共感してこそ、

その作家の多くの写真のなかから、時分に合った、一枚の写真を買うという。

●このギャラリーの契約作家となるには、福川氏と個人的な信頼関係を結ぶことになる。

契約書はない。紳士契約があるだけだ。いつでも解消することが可能だ。

ギャラリストと写真家の関係とは何だろう。

ギャラリストは、写真家から上前をはねる画廊の親父ではない。

ギャラリーは、写真展開催中、その作家の写真を売ることに力を注ぐ。

数万円の買い物に黙って、その作品の情報を何も知らずに、作品を買う人はいない。

ギャラリストはその写真の説明、作家の説明、

将来性、アート市場での意味、そして価格など、写真を所有したいと思っている人に説明をする。

そのためには、写真のこと、世界の写真市場のこと、写真家のこと、などの知識がなければならない。

●そして何より、商業ギャラリーとは、その扱っている作家の写真を、写真展開催後も扱うということだ。

だからその作家の写真はギャラリーに行けばいつでも買うことができる。

(ネットでも販売している)そこが貸ギャラリーと大きな違いだ。場所を貸しているではない。

●ギャラリストは、その写真家の将来性ともに、パートナーとして生きてゆこうという決意がある。

真剣度が違う。

だから、0から関係を始める場合、ギャラリストと写真家の取り分の分配率は、50%、50%だ。

写真展は、一回やるだけでは意味がない。最低2年に一回やってゆく必要ある。

欧米の有名ギャラリーだったら、例え企画展を開催できたとしても、

売れ行きが悪ければ、二度目の展覧会はないという厳しさだ。

だからギャラリーで企画展を何度も開催している作家は作品が売れているということになり、

その作家の作品は、市場価値があるという、単純な仕組みでもある。

よく、アーティストのプロフィールに写真展の履歴が書かれるが、

それはそのアーティストの市場価値を見る指針にもなっている。


●かつて海外の作家のみを扱っていた福川は近年、そのコンセプトとして、

日本人の作家を日本人に売ることをテーマにしている。

実は、僕は彼のその考えに痛く共感した。

日本で売れなくて、なんで海外で売れるのか!」

●巷でいわれているように、日本には写真を買う文化がない。

日本人は写真を買わない、日本家屋に写真は合わない等々とさまざまな、

迷信のようなものがある。

そのことについて福川氏は、

日本のように文化の高い国が、アートを理解しないわけがないという。

「彼らが写真を買わないのは、ほしい写真がないからだ」

と断言する。彼は、目黒の住宅街にこのギャライーをオープンしたのが、

目黒通りは、いまや、インテリアストリート呼ばれるほど、家具屋が多いからだ。

趣味の良い家具を買う層と、写真を買う層は重なるのではないかというのが、彼の持論だ。

インテリアになる写真?。

● 僕は最初、彼の壁にかざるのにちょうどよい写真というのに、反発があった。

それこそ軽蔑をこめていう、インテリアフォト。それはサロン的な写真ということではないかと。

すると福川は違うという。写真には、アートでもそうだけど、

ミドルマーケット、強烈な作品性の強いものではなく、もっとニュートラルなもの、

普通の人たちの生活に入り込む写真、毎日眺めていても、

それを所有する人に、何らかの安らぎや、インスパイヤを与える写真が求められていると。

だからといって、けっしてこぎれいな写真ということではない。

強烈な写真は雑誌でみたほうがよい。見たいときだけ見て、見たくなければ閉じればいいのだ。

壁に飾る写真は、そういうものではない。

もっと、人間の潜在意識に作用するような作品だ。

長い時間見ることによって、その写真を見る人と対話ができるような写真。

それは決してアナクロな風景写真ではないと。

彼は僕の写真今回開催した「TeachaYourChildren1967−1975」のスナップ写真を見て、

これは横木にとってのArtPhotoだといった。

まるで報道写真のような写真もArtPhoto・・・。

だって、絶対これに共感してくれて買う人いるよ!これはアート写真だよ」

確かに1968年の10.21の写真はすでに数枚売れている。

どうみても報道写真のようだけど、見る人によっては、ファンタジーなのだろうか。

僕は、そこで初めて、壁に飾る写真は何かと考えた。

今まで、マスメディアとしての写真のことばかり考えていたけど、

一枚のオリジナルプリントとしての写真とは何なのだろう。

ゆっくりと、スローライフな生活スタイルで、写真と向き合うのは、写真を所有してこそ結べる関係だ。

“アンドレバザンは「写真」という芸術の特徴が「人間の不在」にあることを主張した。

他の芸術(絵画や彫刻)が全て、何らかの意味で人間(芸術家)の「表現する意志」に基づいて

人為的に製作されるのに対して、写真は人間が関与しない

「自動的な形成」によって製作されたにすぎないといえるからだ。

写真を人為的な「芸術作品」であるというよりは「自然現象」だという。”

写真はたしかにそういう面がある。

「写真は不在の記録」(今は存在していない)であるが、

それは決して「不在(死)の記録」ではない、と僕は思っている。

写真の捕らえた不在は、“存在の想像”「生命の想像」の記録でもあるからだ。(あくまで僕の考え)

● 写真を所有して、壁に飾ると何が起きるかといえば、そこには、バザンのいうように、

その写真を撮った作家が消えてしまうという、ミラクルが起きる。

絵はあくまで、画家個人の痕跡だ。作家のイマジネーションだ。

しかし写真は違う。その写真を所有した人にとって、

その写真は、所有したその人の「物」、風景になるからだ。

なぜならば、写真はオートマチックに記録されたもので、

それを記録した撮影者作者は、いかに手を加えようが、

現実の世界を切り取ったに過ぎないからだ。

そういう逆説が起きない写真は、写真ではないのかもしれない。

写真を所有した人は、その写真が描く世界の中に入ることもできる。

写真を見るという行為は、「窓」でもあるし「鏡」でもあるのだ!

今や写真は「窓」か「鏡」かという分けかたはできない。

ある時は「窓」であるし、あるときは「鏡」にもなる。

●写真を所有すると、そういう世界を知ることになる。

それは音楽を聴いたり、小説を読むのとは違う世界だ。こういうメディアに僕は今まで気がつかなかった。

● ところが、ここで大きな問題点が存在する。

それは、写真の価格という問題だ。

さきほど述べた、写真を所有することで感じられる喜びの対価はいくらかということだ。

その感動や、コミュニケーションのために、人はいくら投資するだろうかということだ。

しかもアート市場の確立してない日本では、購入した写真は、

「心への投資」にはなるけど、「市場の中の投資」にはなっていない。

出発点の作品、心への投資に、人はいくら払うのだろう。

CD3000円弱、映画2000円弱、書籍1000−2000円。

人は「感動」や「インスパイヤ」や癒しを求めて支払うのは、

そんなものだろう。写真集2000−5000円。

海外の書店にあるビジュアル本も30-50ドルぐらいだ。

それはどれも情報としての値段、大量生産品としての値段だ。

所有する「物」を意識するのは10000円ぐらいからだろうか。

100ドルぐらいならば、物を所有する衝動として出すことができるのではないか。

しかし日本でもオリジナルプリントの価格は300ドル、500ドル、1000ドルとどれも、

普通のひとが、自分の生活や人生を豊かにするための投資としては高価すぎないか。

僕は市場価値があるものが、1000ドルだろうが、10000ドルだろうか問題ないと思っている。

● 実は銀塩写真は、価格を低くできないという宿命がある。

銀塩環境の逼迫したこれからは、ますます難しいだろう。

なぜならば、銀塩オリジナルプリントは、実は大量生産にあまり向いていないという現実があるからだ。

機械的にプリントするならば、何万枚でも可能だろう。

しかし実際プリントを作家はストレートに焼くことはほとんどない。

かつては印刷の原稿だったので、一枚の完成プリントを作るために、最低3枚はプリントした。

難しいネガからだと、10枚以上プリントして、満足するのはたった一枚ということにもなった。

だから少なくとも作家が自分でプリントするには、限界がある。

欧米のようにオリジナルプリントがかなり流通していれば、専門のプリンターが存在可能だ。

彼らは毎日プロとしてプリントする。写真の価格がある程度高ければ、

彼らにプリントしてもらうことがベストだろう。

何度もいうように、作家が自らプリントする場合、何枚も同じものをプリントするのは、かなり苦痛だ。

しかも毎日プリントするわけではないので、

新たにプリントをするには、準備もモチベーションも必要なので、

一枚の写真にやはり最低、300ドルぐらいは求めてしまうだろう。

しかし市場価値のない作品に、誰が300ドルを払うだろうか。

実際少しでも名前のある(いろんな意味で)作家の場合、

最低でも500ドルと思っている。平気で1000ドルぐらいの値をつける人もいる。

● 僕は「前衛としてのオリジナルプリント」と考えたとき、

いったい感動や共感、インスパイヤを求めて人はいくら払うのかということの実験をしたいと思った。

そのために選んだのがデジタルプリントだった。

デジタルプリントは銀塩写真の2分の1から3分の1の価格だ。

● デジタルプリントは今ではさまざまなものがある。ラムダプリントのような、今までの

銀塩カラーペーパーに、デジタル化したデータをレイザーで露光し、現像する、銀塩デジタルプリントだ。

● そして一般に普及した、インクジェットプリントだ。

ごく最近まで、ラムダプリントのような銀塩デジタルプリントが一番だと僕は思っていた。

モノクロのプリントはまだオリジナルプリントといえる次元にはなっていなかった。

●それが、EPSON PX5500に出会い、僕は考え方変わった。

6500、7500、9500とも同じコンセプト、

モノクロ写真の「黒」の色をコントロールできる初めての、

インクジェットプリンターの出現だった。

惜しむらくは、まだ日本国内では、A3ノビしかハイコーリティのペーパーがないことだ。

A3ノビペーパーの適合はPX5500だ。

●銀塩写真とデジタルプリントの差は、実に気分的なものだ。

銀塩カメラとデジタルカメラの違いと似ている。

デジタルプリントに銀塩プリント、特に暗室作業のような、暗闇の神秘的な部分はない。

コーリティに関しては遜色ない。

ある著名な銀塩写真作家は、僕の写真を見て、

額に入っている写真と、裸で壁に貼り付けてある写真を見くらべ、

額に入った写真を銀塩と勘違いしたのか、その違いをとうとうと述べたという。

実に心理的なものだという証拠だろう。そして今後ますます、

銀塩のコーリティは下がり、デジタルは上がってゆく。

●デジタルプリントの最大の利点は、一枚プリントするには、

その経費は銀塩と変わらないし、もしかしたら高いかもしれないが、

一枚のオリジナルピースを作れば、まったくそれと同じものが、作成できるということだろう。

それこそ写真の原点、「複製時代の芸術作品」だ。

もともと写真は「世界の複製」だ。それを再度、印画紙に複製するのと、

ペーパーにデジタルプリントすることに、何の違いがあろうか。

しかもデジタルのメリットは、作者が100%のコントロールが可能だということだ。

それは銀塩写真にもなかった、最大のメリットだろう。

一枚一枚、作家が直接プリントすることができる。

そしてそれは、何枚でも同じようにプリントすることができるのだ。

●そこに、新たな問題点がある。

無限にプリントすると、その写真はいつまでも、たとえどんなに売れても、市場価値が上がることがない。

感動のみで写真を所有したとしても、

市場価値という、一種のゲーム性は、アート作品を買う醍醐味でもあるのだ。

●そこで重要なのが、ギャラリーとギャラリストなのだ。

今回僕は、ギャラリストの福川氏と話し合い、1プリント50部限定にすることにした。

エディション50ということだ。その数的保障は、ギャラリスト福川氏が受け持つことになる。

エディションの管理がギャラリーの役目だ。

A3ノビ、デジタルアーカイバルプリント、

特注額込みで、エディション番号1〜10を18,900円に設定した。

この写真展のイコン的な写真は、すでに10枚売れたので、

エディション番号11−20になるので、価格は額込みで、31,500円になった。

今回は、価格を戦略的に低くしたが、(実質写真のみで100ドルだ)デジタルプリント、

市場価値の定まっていない出発点としては、妥当な価格だと僕は思っている。

この先、僕が写真を発表し続ければ、自然に価格が上昇するのは当然だろう。

今回買った人はかなりバーゲンだったのでさらにその可能性が高い。

そういうことを、永続的に保障してゆくのが、ギャラリー、ギャラリストの役目だ。

(だからギャラリーが何年、商業ギャラリーとして運営されているのかも重要だ)

●日本では銀塩写真の市場は残念ながらできなかった。

しかし、今回の僕のように、ハイコーリティのデジタルプリントで、

価格を低くおさえ、まず最初に感動を所有する価格から始めたらどうかと思う。

多くの人がこの考えに賛同してくれると日本に本当に、

アート写真の市場ができると思う。写真のオークションが活発になり、

そのことによって、写真の価値がでてくる。

そのことが、銀塩写真の価値を底上げするだろう。

デジタル時代になったからこそ、今その実験をする時になった。

●そのためには、福川氏のようなギャラリストがたくさん誕生することを期待している。

写真の楽しみは、撮るだけじゃない。写真家を育てることもこれから巣晴らしい仕事だ。

時間がかかるかもしれない。

写真学校を卒業した皆さん、才能ある写真家にであったら、

ギャラリストとなり、彼らと共に作品を発表する場をつくるのはどうだろう。

●そうすることによって、写真家が「心の裸の写真」で、勝負できる時代がくることが理想だ。

日本で評価されたものが、このグローバル時代に海外で通用しないはずはない。

そこには、プロもアマチュアもない。違う仕事を持ちながら、作品を発表してゆく。

そして売る。そういう作家は欧米ではたくさんいる。作家で食べてゆくには、

10年20年と地道な努力が必要だからだ。

● もし、若いカメラマン、中堅のカメラマン、売れている人も、

売れていない人も、10年さき、20年さきの自分を想像してみるといい。

今の仕事はなぜあるのか。それはほとんど人気があるからだ。

もしくは便利だからだ。人気も便利も、代用はいくらでもいる。

若いから使いやすいし、才能があるように見えても、ながく続けているとそれは価値がなくなる。

そのためにも、若い時代から作品をこつこつと発表し、売ることだ。

自分の「心の裸の写真」で食べてゆくことは、写真家としてメディアから自立することだ。

それは地道な無形の財産になるはずだ。

いやもしかしたらそのなかから本当の写真のスターが生まれるかも知れない。

●そのためには、たくさんのギャラリストが生まれて欲しい。

ギャラリストの数だけ、価値観の違う写真が存在できる。

★ギャラリスト、これほどスリリングな仕事はないぞ!

そして、写真を勉強した多くの人、写真を撮るのが大好きな人、

一枚の写真を買うことによって、生活が変わることを、夢想してみよう。

それには、写真家、ギャラリスト、コレクター、写真愛好家が連携する必要がある。


☆最後に写真コレクターの原茂さんのひとこと

“原さん曰く写真を1枚買うと

「ギャラリーが優しくなる」

「作家と親しくなれる」

「生活や人生まで変る」

極めつけは「もてる」ということでした。”

北井一夫x原茂x渡部さとるトークショーより

●参照


★凍土さんのBlogに、写真を買うことが書いてあった。

★漂流記さんのblog

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